今日では世界で約1700万人もの人々が日常的に実践し、その支持は世界的に拡大傾向といえるピラティス。元々はリハビリのために生まれたエクササイズですが、今では、アスリートのように身体能力を伸ばす目的でトレーニングに取り入れられたり、モデルやタレントが姿勢を良くしたりダイエットに活用したりと、プロ使用から、一般の方の腰痛改善・健康維持・ダイエット目的といったものまで、年代や職業を問わずあらゆる層に広がっています。
ピラティスは、リハビリ生まれと言われるように、身体と心をコントロールし、強さ、柔軟性、耐久性のある筋骨格を追求できるものですが、現代では、その動きが脳神経系にも及ぼすことから、瞑想効果や心のバランスを保つことにまで及ぶことがわかってきています。糖尿病、リウマチ、アレルギー、腰痛などの生活習慣病にも効果があるとされるピラティス。そんなピラティスについて、今から100年前に遡り、その誕生から現代までの軌跡まで、紐解いていきます。
考案者ジョセフ・ハベルタス・ピラティス氏は、1883年、オランダ西部の国境まで約20キロの場所にある、Mönchengladbach(メンヒェングラートバッハ)という街で生まれました。
幼少時代はリウマチ熱、くる病、骨軟化症、喘息などに苦しみ、非常に病弱だったと言われています。これらの病気と戦うため、体操選手・ボクサーとして活躍していた父の影響で、体操やボクシング、禅、ヨガ、スキー、ダイビングなど、あらゆるトレーニングに取り組み、熱心に鍛錬を重ねました。14歳になる頃にはすっかり病気を克服し、解剖学書のモデルをするほどに健康的な身体を手に入れましたそうです。自身が病気を克服した経験から、様々な運動療法に興味を持ち、独自で研究していました。
彼は、Body,Mind,Spiritのバランスを重視するギリシャの文化の精神と、彫刻の美しさに関心を持ち、世界中のさまざまな身体訓練法や武術を鍛錬し、素晴らしい肉体を築き上げました。そして、サーカス団員として、ヨーロッパを旅することになったのです。
1912年、サーカス団の巡業でイギリスに渡ったピラティス氏は、サーカス員やボクサーとして活躍しながらスコットランド警察のトレーナーとして武術の指導をしていました。
しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、敵国の人間としてイギリスのマン島に拘留されてしまいます。拘留された彼は、道端で見かけた野良猫の身体の動き、伸び、エネルギーにインスパイアされ、猫の動きを観察し、これまで研究してきた身体訓練法をアップデートさせ、他の囚人たちと一緒にエクササイズを行い、指導をするようになっていきました。
そんな中、マン島で看護師として働くようになっていた彼は、負傷した患者が寝たきりでも身体を強化し、全身の機能を改善するエクササイズできるよう、病院のベッドを改造し、後のピラティス専用のマシン「キャディラック(トラピーズテーブル)」の原型となるエクササイズ器具を作り、それを用いてリハビリ指導を始めました。彼はこの後も、生涯を通して沢山の革新的なエクササイズ器具を発明し続けることになります。
そんなピラティス氏がマン島に拘留され、4年が過ぎた1918年、インフルエンザ(スペイン風邪)の大流行が始まりました。この大流行で、世界中で約5億人が感染し、5千万~1億人が亡くなったとされています。そんな中で、マン島に拘留されていたピラティス氏や、彼のエクササイズを行っていた囚人たちは、誰一人としてスペイン風邪にならなかったそうです。彼のメソッドは、筋肉や骨だけでなく、全身の機能に影響を及ぼす神経系や免疫システムにも効果を発揮したのです。
1919年、マン島の収容所から釈放されたピラティス氏はドイツに戻り、開発したメソッドを広める活動を始めました。彼は護身術の指導者として働きながら、個人のクライアントにも指導をはじめます。彼のメソッドはモダンダンスの練習の中でも取り入れられ始めましたが、1925年、ドイツ当局より新しい軍の訓練を頼まれた彼は、当時のドイツの政治的思考を好まなかったため、アメリカに渡ることを決意したのです
1926年、ピラティス氏はニューヨークに到着します。航海中、彼は後に(内縁の)妻となる看護師のクララ・ゼウナーと出会いました。
30代後半になると、彼はニューヨークシティバレエ団と同じビルに、クララと共にスタジオをオープンし、現在のキャディラックや、リフォーマーとなるエクササイズ器具を設置しました。
スタジオをオープンし、間も無くすると、ピラティス氏の噂を聞きつけた、米国の主要なバレエ団の1つである「ニューヨーク・シティ・バレエ」の「ジョージ・バランシン」や、モダンダンスの開拓者の一人でもある「マーサ・グラハム」は、怪我をしたバレリーナを彼のスタジオに送り込むようになりました。彼の指導により多くのダンサーやアスリートが怪我や不調から回復すると、たちまち噂が広まり、ビジネスマンや医者、音楽家、サーカス芸人、体操選手、学生など、様々なクライアントがスタジオに来るようになり、一般の人にも広がっていきました。
1934年、ピラティス氏にとって初めての著書となる、『ユア・ヘルス (Your Health)』を出版します。この本の中で、ピラティス氏は彼のメソッドを「コントロロジー(Contorology)』と名付けました。これは、身体の細部に意識を高めコントロールし、深い呼吸と共に動くことで深層の筋肉を鍛え、動きの中で心と身体をつなげる革新的なメソッドでした。ピラティス氏は、現代人の様々な病気が姿勢の悪さや浅い呼吸が原因となっていると考え、全ての人が生涯の健康のために「コントロロジー」を行うべきだ、と信じていたそうです。
1945年に出版した『リターン・トゥ・ライフ・スルー・コントロロジー (Return to Life Through Contrology)』では、「コントロロジー」の理論と、ピラティス氏自らの写真によるエクササイズの解説をしました。この頃、彼は「コントロロジー」は人類を変えられると確信しており、医学の世界や学校教育への導入を目指して日々熱心に宣伝活動をしていたものの、医療資格を持たない彼に対し、病院の対応は悪く、医療にピラティスが取り入れられるのは彼の死後何年も経過してからになります。
ピラティス氏は1967年に亡くなるまで、熱心に研究を重ねながらもクライアントへの指導を続けていました。また、彼は相当な変わり者だったと言われており、「ニューヨークの街並みをパンツ姿で歩き、逞しい肉体を見せつけた」「パーティが大好きで、毎日大量のお酒と葉巻を摂取していた」など、今でも多くのユニークなエピソードが語り継がれています。
ピラティス氏の死後、彼のスタジオは妻クララと弟子のロマーナ・クリザノウスカが引き継ぎ、共に運営を続けました。彼は遺言を残しませんでしたが、第一世代のピラティス指導者(ピラティス・エルダー)である、カローラ・トリエー、ロマーナ・クリザノウスカ、イブ・ジェントリー、ブルース・キング、ロリータ・サン・ミゲェル、メアリー・ボゥエン、ロン・フレッチャー、キャッシー・グラント、ボブ・シードが、ピラティス氏の遺志を引き継ぎ、後進を育てていきました。
1996年、マンハッタンに拠点を置き、自身もピラティス・インストラクターをするショーン・ギャラガー氏が、「pilates」「ピラティス」を商標登録してしまう、という事件が起こりました。そのことによって「pilates」「ピラティス」という用語の使用が制限され、ピラティスを説明する際に「Pilates-based」や「Pilates Inspired」など、ピラティスという用語をそのまま使えない事態となり、集団訴訟が起こりました。
4年間の法定闘争を経て2000年に和解し、一般用語として認められると、ピラティス・メソッドは爆発的な広まりをみせ、世界中にピラティス団体が発足し、指導者養成コースの開催と共に、一般にも広く浸透していきました。
この訴訟がきっかけとなり、同年には、ピラティス・メソッドが正しい形で継承されていくことを目的とする非営利組織、PMA(ピラティス・メソッド・アライアンス)が発足しました。PMAはピラティス指導者の国際的な資格、教育基準を設定しており、BASIピラティスやPOLESTARピラティスなど、全世界の様々なピラティス団体や流派が所属し、ピラティス氏の素晴らしい功績を広めようと活動しています。
数あるピラティス団体のごく一部ではありますが、ご紹介します。他にもたくさんのピラティス団体が世界中に存在し、それぞれの目的や特徴ごとに、日々研究を重ね、様々なスタイルのピラティスを展開しています。
今では世界で約1700万人もの人々が日常的に実践するピラティス・エクササイズですが、すべてがジョセフ・ピラティスという一人の人物から始まり、数人の弟子からそのまた弟子へ、少しずつ広がりながら発展し続けているのです。
“In 10 sessions you’ll feel the difference,
in 20 sessions you’ll see the difference, and
in 30 sessions you’ll have a whole new body”.
-Joseph H. Pilates