06|行き先を決める人と、進める人
古民家暮らし、「かのや」の青梅日日記。
古民家暮らし、「かのや」の青梅日日記。
05|ぐるぐる巡る畑と台所

山々に囲まれ、すぐそばには多摩川が流れる青梅の古民家「かのや」。暮らすのは織さんと夫と6歳の双子の子どもたち。ここでは何かを成し遂げるためではなく、日々の中に宿る感覚を丁寧に受け取ることから始まります。
連載「古民家暮らし、「かのや」の青梅日日(にちにち)記。」では、幸せを“探す”生き方から、“感じる”生き方へと戻った織さんと家族の日々が綴られます。
第5回目は庭の畑が生んだ、食べること、生きることの巡りを感じられる食卓について。

コトコトと鍋から湯気が立ち上る台所。部屋中に、やさしい匂いが立ち込めています。鍋の中身は、玉ねぎの皮やキャベツの芯、ピーマンの種といった、野菜の切れ端たち。それらをまとめて煮出して、野菜出汁をつくるのが、私の日課です。
野菜の甘みや香りが溶け出したスープは滋味深い味で、季節によって味わいも変わります。
まだ私が小さかった頃、台所に立つ祖母が、料理をしながらこんなことを言っていました。
「お野菜に、捨てるところなんて無いのよ。食べられないって、人間が勝手に決めているだけ。根っこだって、美味しいんだから」
鍋の中をかき混ぜながら、その言葉を、ふと思い出します。野菜だって、ひとつの命。少しも無駄にせず、できるだけ丸ごといただきたい。そんな気持ちは、あの頃から私の中に静かに残っていました。
山や川に囲まれた、古い家に住みたい。そう夢を描いたとき、もうひとつ、強く思っていたことが「小さくてもいいから、自分の畑が欲しい」でした。
その願いは、台所の窓から見える、庭の一画に実現しました。

それまで土すら触ったことのない、都心のマンション暮らし。野菜づくりの知識も、経験もゼロでした。土を盛って、種を蒔けば育つのだろう。
そのくらいにしか思っていなくて、栄養が足りずに苗を弱らせてしまったり、水をあげ忘れて枯らしてしまったり、ネットを張らずに、虫にすべて食べられてしまったり…。
そんな素人の畑を見かねて、地域の先輩方からは、たくさんのアドバイスをいただきました(笑)。毎年失敗を重ね、試行錯誤をするうちに、少しずつ自分に合った育て方や、向いている野菜が分かってきました。
朝、台所の窓から畑を眺めながら、「あ、今日はきゅうりがたくさん実っているな」「トマトが色づいてきた。そろそろ収穫できそう」「半分はサラダにして、残りはソースにしようかな」
そんなふうに考える時間が、私はとても好きです。
今日の献立はスーパーのチラシではなく、窓の向こうの畑が、そっと教えてくれる。私にとってあの畑は、いちばん身近で、本当に旬のものがそろう、自分だけのスーパーのような存在です。
調理中に出た野菜の切れ端は、また鍋へ入れて、野菜出汁に。その出汁でつくる、手作り味噌のお味噌汁は、子どもたちも、いつもきれいに飲み干してくれます。

そして、出汁を取ったあとの出汁ガラは、最後にもう一度、畑へ。土に返して、次の野菜の栄養になります。
買って、使って、捨てるだけだった日常から、台所と畑が、ぐるぐると循環していく暮らしへ。この流れをつくるようになってから、暮らしの中に、「終わり」がなくなったように感じています。
以前の私は、便利さや効率の中で生きていて、自分たちだけで世界が回っているような、そんな錯覚の中にいました。スーパーに並ぶ食材も、水道も、電気も、そこにあって当たり前のものだと思っていたのです。
畑に立ち、土を触っていると、土の中で微生物が働き、その力によって野菜が育っていることを知ります。この土は、私たち人間の手ではつくることのできないものなのだと、あらためて気づかされます。
料理をすると、命をいただいて生きているという事実に、静かに立ち戻ります。だから私は、何度失敗しても土から野菜を育て、自分の手で料理をつくりたいのです。
それは、エコのためでも、丁寧な暮らしをしていると思われたいからでもなく、ただ、そうしていると、自分が何に支えられて生きているのかを、思い出せるから。祖母の言葉の意味を忘れないから。
畑と台所を行き来するこの時間が、私にとっての、大切な原点なのかもしれません。

