皆さんは「あいうべ体操」なる体操をご存知だろうか。あいうべ体操とは、「あ」「い」「う」「べ」の形に口を動かすだけで、誰でも簡単に舌や口の周りの筋肉を鍛えられるという体操である。福岡みらいクリニック院長の今井一彰さんが考案し、現在は世界中で実践されている。 なぜ、あいうべ体操によって舌や口周りの筋肉を鍛えなければいけないのかと言えば、これらの筋肉が衰えると、人間の呼吸は自然と、本来あるべき鼻呼吸から口呼吸へと変わってしまうからだ。そして今井さんによれば、口呼吸の改善は、アトピー性疾患など、あらゆる病気の原因治療につながることが分かっているという(あいうべ体操についての詳しい説明は、福岡みらいクリニックの公式ページ、または今井さんの講演内容をレポートしたこちらの記事で)。 今井さんの職業は内科医。一般的に知られる内科医の仕事というのは、患者の病気を治すことだ。一方で、あいうべ体操を通じて今井さんが目指すのは、そもそも病気にならない身体を私たち一人一人が自分でつくることだという。ここに、一つの矛盾が生じる。 誰もが自分の努力で病気にならない身体を手にしてしまっては、内科医がやることがなくなってしまうことになる。儲からなくなるし、究極的には仕事がなくなってしまうのだ。にも関わらずこのような活動を続けている今井さんは、内科医というものを、あるいは仕事というものをどのように捉えているのだろうか。 今井さんの活動は、さまざまな人を巻き込んでその輪を広げている。歯科向けの医療機器販売会社を経営する山中一剛さんもその一人で、今井さんの活動に共鳴して、自主的に鼻呼吸を促進する口閉じテープ「マウスリープ」の製造・販売を始めた。 今回は「鼻呼吸を日本の文化に」という標語の下に活動を続けるお2人に対談をお願いし、どんな思いでこの活動をしているのか、お2人にとっての健康とは、仕事とは何かということについて、お話を伺った。
人々の健康のために、歯科医にしかできないことがある
——歯科向け医療機器の会社の経営者と内科医。一見すると全く関係ない分野のように思うのですが、お2人はどのようにして出会い、活動をともにするようになったのですか?
治療は医師にしかできないが、予防は工夫次第で誰にでもできる
今井 そうです。でも残念なことに、多くの歯科の先生たちは自分たちの仕事にすごく価値があるということに気付いていない。だから私はいつも、「仕事の再定義をしよう」と呼びかけているんです。ちょっと考え方を変えるだけで、歯科医の仕事はものすごく価値のあるものとなる。これからは「歯科は呼吸」の時代なんだから、と。 山中 風邪を引く前に風邪の予防のために内科に行くという人はいませんが、歯科には、検診だったり歯石とりだったりで、病気になる前の人がたくさん訪れます。そういう人たちに対して、何気ない会話の中で正しい呼吸法を啓発するというだけでも、多くの人の健康に寄与できるということですよね。 今井 そうです。現に歯科の場合は、かかりつけの医師がいると病気が減って、医療費が減るということがデータとして出ています。今、歯科は全国に6万8000件あると言われていますが、5万店舗あると言われるコンビニよりも多いこの資源をどう活用するかによって、日本人の健康は大きく変わってくるということです。 山中 それでも今井先生の活動のおかげで、世の中の意識もだいぶ変わってきていると感じます。ちょうど昨日、子供の幼稚園の参観に行ってきたんですが、ふと掲示板を見たら、「口呼吸ってどういうこと?」って書いてあって。呼吸の問題の大切さというのが、ジリジリと一般の人にも分かる形で広がっているんだなあと実感しました。 今井 そういう動きが出てきたのはここ5年くらいのように思います。それまでは、あいうべ体操とか言っていても見向きもされませんでしたから。 講演に行った時の反応なども明らかに違いますね。例えば、「舌の位置は上顎についた状態が正しい」ということを言うと、以前であれば「なるほど、そうなのか!」という反応だったのが、最近では「うん、それは知ってる」というように反応が変わってきていて、何か新しい話をしなきゃと焦らされるくらいですから。 ——最近は「未病」というキーワードを耳にする機会も増えました。そういう考えが一般にも浸透してきている、と? 今井 まだまだですが、その芽は出てきていると思います。そこで強調したいのが、予防というのは本来、工夫次第で誰にでもできることだということです。 今の子供たちはご飯を食べる時に、よく噛まずに水で流し込もうとする。それじゃあ口周りの筋肉が衰えるから、「しっかり噛んで食べなさい」と大人は言うけれど、それだけでは子供は言うことを聞きません。「噛まないと食べられない硬い食べ物を与える」というのも、最近の幼稚園ではメニュー一つ変えるのにもいろいろと決まりがあって、簡単ではないようです。 ではどうするか。岐阜県のある幼稚園では、食べる時には水分を与えず、全部食べ終わってから水分を取るようにしたそうです。そうすると子供たちは、黙っていてもしっかり噛んで食べるようになるんです。これも一つの工夫。食事の順番を変えただけでも結果は出るんです。 山中 このことは小学校でも実証されていて、インフルエンザの発症率が低下するという結果が出ているそうです。私の知り合いの歯科医師が経営されている保育園では、おやつの時間にフランスパンを出すようにしているそうですが、これも同じような狙いですよね。 今井 そう。つまり、幼稚園や保育園の先生に治療はできないけれど、予防はできるということです。ヨガのスタジオがやっていることというのも、おそらくこれと同じでしょう。 医者としては、自分が生業としている治療の部分を手放したくないという心理がどうしても働くでしょうが、昨今の医療費の増大を考えても、それを解放して誰でも予防できるようにするというのが、今後の医療のトレンドになるだろうと思います。 ちなみに、私の知っているお母さんで、子供にはフランスパンがいいという話を鵜呑みにして与えているんだけど、「硬いだろうから」と言って皮を剥いであげていた方がいました(笑)。私はこれを「優しい虐待」と呼んでいるんです。医師としての仕事がなくなることこそが、医師の究極的な目標だ
——でも、先ほど今井先生もおっしゃっていたように、医師が自分の生業のことを考えたら、従来通り治療の部分を囲い込もうとするのは自然なことですよね? そこはどう突破していけばいいんでしょうか。
健康になるための方法は、そこかしこにいくらでもある
山中 先生のお話はヨガの教えと通じるところがたくさんあると感じます。ヨガはサンスクリット語で「つなぐ、つなげる」を意味する「Yuj(ユジュ)」に語源があるとされるように、姿勢を正す、食べる、呼吸するといった一つ一つの行為は、全てつながっているという考え方に基づいています。その入り口が鼻であり、口である、と。先生が「歯科医にしかできないことがある」というのは、まさにそういうことですよね。 先生が実践する「薬を使わない治療」というのも、ヨガの考え方と一致していて。私の友達に、ビールをガブガブ飲んでいる一方で、薬で尿酸値を下げて「問題ない」と言っている奴がいて、確かに数字は落ちているかもしれないけれど、「それじゃ身体がおかしくなっちゃうんじゃないの?」って私はよく言うんです。本来、そうやって薬に頼るんじゃなくて、自分自身の身体がもともと持っている力を伸ばしてあげる方がいいはずじゃないですか。ヨガをやることで目指しているものというのも、そういうことだと思うんです。 ——山中さんが初めて今井先生のお話を聞いた時に、その符合に衝撃を受けたというのも分かる気がします。 今井 ヘーゲルという哲学者が残した言葉に「らせん的発展」というものがあります。ものすごく革新的なことをやっているようで、実は大昔の人がやっていたことをなぞっているだけに見えることがある。けれども実際には少しずつ変わっていっていることもあって、物事というのはそうやってらせん的に発展していくものなのだ、という考え方です。 だから、ヨガの人が何千年も前にやっていたことと、今の私たちがやっていることが、本質的には何にも変わっていないということがあっても、それは不思議なことじゃない。最近よく言われるマインドフルネスだって、言葉としては新しいけれど、おそらくお釈迦様が瞑想をして悪魔を払ったとか、そういうところから来ているはずです。その中でより科学的に、より洗練されていっているということでしょう。 逆に言えば、こういうスタジオに来てヨガやマインドフルネスをやる場合にも、それを特別なこととしてやるのか、それともスタジオの外にもそれを持ち出すのかで、おそらくそこから得られるものは大きく変わってくるのでしょう。本来は、咀嚼することにも、呼吸することにも、ピーナツ一粒を手にとって触って、匂いを嗅いで、どう砕くのかということにもマインドフルネスがあるはずで。 そう考えると、自分が健康になっていくという目標に対して、何を使ってそこへたどり着くかという手段は山ほどある。それが、予防は誰にだってできるってことの意味だと思うんですよね。日々の食卓だって予防なんだ、ってね。 text by Atsuo Suzuki [aside]
