度重なる手術にも、決して卑屈になることはなかった
ヨガやピラティスを始める動機は人それぞれだが、自身の怪我や身体の不調がきっかけとなって、身体と向き合うようになったという人が多いように思う。
その意味では、清水さんは生まれついたその時から、その後の歩みが宿命づけられていたのかもしれない。先天性二分脊椎症による右下肢形成不全という重度の障害を持って生まれた清水さんの半生は、身体と向き合い続ける日々としてあった。
この障害は、脊椎の一部の奇形が原因で、右の骨盤から爪先までが正常に成長しないというものだ。左右の足の太さや長さの差は成長とともにどんどん広がるから、清水さんは人生の節目節目で大きな手術を強いられてきた。
「中学2年生の時に受けた手術は、イリザロフと呼ばれる当時日本では5例目という最新の術式でした。短かった右足の骨を切断して延長し、同時にねじれの矯正も行う難しいものになりました。入院中の1995年1月には阪神淡路大震災を被災し、2か月にわたり家族と離れ離れになる心細い思いもしました」
ところが、清水さんは10代半ばだった当時から、自分の身の上に対して卑屈になることがなかった。
「入院中も治療法について自分なりに色々と勉強していて。2か月ぶりに両親と再会した際には、専門的な用語を使って自分の症状について詳細に説明したことで、両親を驚かせたみたいです」
そのように強く育った背景には、足が悪いせいで何かができないと言い訳することを決して許さない、厳しい母親の教育があった。「幼稚園や学校で他の子供たちからからかわれることもあったものの、倍にして返して、逆に先生から叱られるくらいの子供だった」という。
ピラティスと出会い、点が線に。そして劇団四季入団
「母方が音楽一家だったこともあり、物心ついたころにはもう、宝塚歌劇団を見て育ちました」
2歳でリトミックに通い始め、幼稚園時代はピアノ、バレエ、水泳の英才教育。将来のミュージカル女優という夢は清水さんの胸の中で当たり前のように膨らみ、高校1年の時にミュージカル『美女と野獣』を見たことで、憧れの対象は宝塚から劇団四季へと変わった。
「生活の全てが夢の実現のためにあった」と清水さん。大学は音大の声楽科に進み、2回生からは劇団四季の元団員が座長を務める劇団に入団。他にジャズダンス、クラシックバレエのレッスンにも通い、残りの時間はアルバイトに明け暮れた。
大学4回生になる春に再び足の手術を受けることになるのだが、この手術もまた、夢のためにした決断だった。
「イリザロフという手術はその後の成長を見込んであらかじめ右足を長めに伸ばしておくものだったのですが、思ったほどに身長が伸びなかったために、今度は短縮の必要に迫られたんです。正確に言えば、生きていくことだけを考えれば必要のない手術でした。でも、劇団四季に入るためには、最低限3センチのヒールを履けるようにならなければならなかったんです」
清水さんが本格的にピラティスと出会うのは、この直後のことだ。当時歌の指導を受けていた先生からリハビリとしてやるよう勧められたことがきっかけだった。
ところが、続けていくうちにリハビリは単なるリハビリではなくなっていった。バレエのレッスンでそれまでできなかった動きができるようになり、歌のレッスンでは声が出しやすくなっていることに気が付いた。
高校時代にアレクサンダーテクニークを習っていた清水さんは、その時点ですでに、音楽家が身体の使い方を学ぶことの重要性を頭では理解していた。音大の授業で音声生理学や解剖学について学んでもいた。
だが、「確かな理論的背景を持ち、体系的で再現性の高いピラティスというメソッドと出会うことにより、そうした点と点が結びつき、一つの線になった。そのことが、その後の上達には大きかった」と清水さんは振り返る。
そうして25歳で臨んだ5回目の挑戦で、清水さんは合格率3%未満という狭き門をくぐり、ついに劇団四季入団を決めることになる。
「根拠のない自信」の背景にあったものとは?
念願かなって入団した劇団四季だったが、清水さんは結果的にわずか1年で退団することになる。『マンマ・ミーア!』のソフィ役を目指して練習を重ねている最中、またも身体の不調に襲われ、掴みかけたチャンスを手放すことになった。
「自分自身はもちろん、応援してくれていた家族の落胆も大きかった」と清水さん。失意のまま一度は一般職に就くことを考えたものの、障害やそれまでのキャリアの特異さがネックとなり、どこにも採用されることがなかった。
しかし、そんな誰から見てもどん底のような状況にあっても、清水さんの中には一筋の光が見えていたという。それが、ピラティストレーナーとしての道だ。
「根拠はなかったんですけど、ピラティストレーナーとしてならやっていけるような気がして」
それからいくつかの資格を取り、不思議な縁も手伝って28歳で独立開業。自身の予感は的中し、以来、37歳になった現在まで、ソプラノ歌手、ボイストレーナー、ピラティストレーナーの3つの柱で活動を続けている。
清水さん自身は「根拠がなかった」と振り返っているが、そこには障害者として、音楽家として、自分自身の身体と向き合い続けてきた28年の積み重ねがあったことは間違いない。
今ではピラティスに口腔内の使い方や拍子の取り方などの音楽的な知識を組み合わせた指導という、唯一無二の価値を打ち出すまでになっているというのも、それまでの歩みの全てがあってこそと言うことができるだろう。
2020年に見据える新たな夢
清水さんは生まれつき障害があったことで、自分の身体と向き合わざるを得なかった。そのことがトレーナーとしての現在の清水さんを形づくっているのは確かだ。

しかし、そんな清水さんが今思うのは、「多くの人は自分と比べて素晴らしい身体を持っているのに、そのことが当たり前すぎて、自分の身体を大事に扱っていない」ということだという。
清水さんのクライアントには自分と同じような障害者もいる。そうした人たちに対しても、あえて「甘えるな」と厳しい言葉を投げかける。
「身体を知るということはすなわち、自分を知るということなんです。可能性はそこから広がります。障害者の中にも、障害を理由に何かを諦めて、どんどん悪い状態に陥っていく人がいることを見てきました。健常者も障害者も、自分の身体を大切に扱えばもっとすごいことができるはずなんです」
だからまずは、道具としての身体の使い方を知ることから始めようというのが清水さんのメッセージだ。もちろん人に言うだけではない。指導者としての清水さんは歩みを止めず、昨年11月にはフィリピンにあるアジア最古の大学である聖トマス大学音楽学部の声楽科の生徒に身体を使って発声するマスタークラスの指導を実施。今年1月にはアメリカに渡り、『アナトミートレインズ』の著者トーマス・マイヤースが主催する解剖実習を受けた。「人間の身体が持つ可能性は本当にすごい。学ぶほどに発見がある」と興奮気味に言う。
一方では、40歳を前にしてどんどんと声が出るようになり、ソプラノ歌手としてのモチベーションも高まっているという。「自分の声をどこまで開発できるかということにも挑戦していきたい」と清水さんは話す。
そしてその先には、見据える新たな夢がある。それは、東京パラリンピックの開会式の舞台で歌うことだ。
「障害があっても、諦めなければ自分のやりたいことがここまでできるんだということを、これからも発信していきたい」と清水さん。これまでと変わらぬ姿勢で、2020年を迎えるつもりでいる。
text by Atsuo Suzuki
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清水 美也子(シミズ ミヤコ)さん
singer(クラシッククロスオーバー・ミュージカル)
Miyakoヴォイストレーニング 主宰
コンディショニングスタジオReinette(レネット)主宰
OSK日本歌劇団 研修所 講師
資格
ネバダ州立大学公認ピラティスインストラクター
STOTT PILATES fullcertificationインストラクター
YAMUNA FOOTFITNESSインストラクター
BODY CIRCLEインストラクター
4月8日 神戸三宮cash boxにてLIVE「Spring has come」
7月23日 神戸 酒心館「Nuestra Mundo~音と踊りで作り出す私達の世界~」
9月8日 芦屋Left-alone「清水美也子アコーステックLIVE」
兵庫県芦屋市のスタジオにてヴォイストレーニング・ピラティスの個人セッションや
企業研修など、希望に合わせた内容での出張レッスンを行っている。
東京でのセッションも不定期開催。スカイプによるヴォイストレーニングレッスンも。
お申込み・お問い合わせはreinette2008@gmail.comまで
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